箱根の十坪の家を訪ねて思ったこと
箱根にある吉村潤三さん設計の「十坪の家」を見に行った。
以前から写真では何度か目にしていたけれど、正直なところ、あまりそそられる感じではなかった。内壁がベニヤ板のように見えて、「ずいぶん素朴な建物だな」という印象が強かったのを覚えている。
そんな中、ちょうど日曜日にぽっかり時間が空いて、たまたまその日が一般公開日だったことを知った。「そうだ、箱根に行ってみよう」と思い立ち、箱根プリンスホテルの近くにあるその場所へ向かった。
現地に着いてみると、写真で見ていた印象とはまったく違っていた。建物はとても小さいのに、妙に背筋が伸びるような空気をまとっていて、自分の身体にぴたりと合う服を着たときのような、しっくりとした落ち着きがそこにあった。
到着してまず道路から敷地に一歩入ると、明確なアプローチというよりも、自然の中に馴染むような道すじができていた。整備された外構というよりは、森の中に小さな建物がぽつんと佇んでいるような雰囲気で、地面はほとんどが既存の土。コンクリート部分に小石が埋め込まれたような足元を進むうちに、家の正面が徐々に見えてくる。道すがら月山(つきやま)のような築山が一角にあり、風景の視線をさりげなく遮るように配置されている。まるで“見せたい景色”を誘導するように、敷地全体が緩やかにデザインされていることに気づかされ、思わず足を止めた。
この建物はもともと持ち主の方が「解体の方向へ」と考えていたものだったそうだ。それが、ある時「実は吉村潤三さんの設計である」と知り、そこから「どうにかして残していこう」という強い思いが生まれたという。現在はクラウドファンディングなども通じて、建物の保存・再生に向けた活動が続けられているとのことだった。
外観はかつて杉板張りだったが、今は時間の経過と共に朽ち、既存のサイディングが張られているため、やや見すぼらしく感じられる部分もある。それでも、案内役の方が語ってくれる建物への想い、吉村さんの考え方、軽井沢の別の住宅との対比などを交えた丁寧な説明を聞いていると、「ただの古い家」ではなく、「今も学べる建築」なのだと気づかされる。見るだけではわからない、深い背景や設計思想を知ることで、この場所が生きているように感じられた。
家の配置と、窓の高さ
家は道路側からの視線が直接入らないよう、外まわりに植栽がやわらかく配されている。案内役の方によれば、その植栽が視線を和らげるだけでなく、窓から見える風景としても最も美しく映える位置を考えて配置されているという。建物自体もわずかに道路から奥まった位置に建てられており、それによって正面からの視線を遮ると同時に、室内から見える景色に広がりを持たせていた。
小上がりに腰を下ろして外を眺めると、その言葉の意味がすぐ分かった。畳に座っても、椅子に座っても、どちらの目線でも窓越しに緑がふわっと入ってくる。視線の高さに合わせて配置された窓は、まるで絵画のように風景を切り取ってくれていた。
ラタンの椅子の存在感
室内の隅にはラタンで編まれた椅子が一脚だけ置かれていた。現存するのが二脚ほどしかない貴重品で、座るのは遠慮してほしいと言われたから、眺めるだけだったのだけれど、背もたれからアームへ続く柔らかな丸みを見ていると、体がそこに吸い込まれそうな気配があった。他のラタン椅子もこれまでいくつか見てきたが、ここまで包み込む形はなかなかない。座れなかったのに、座り心地だけは妙に想像できてしまうのが面白かった。
手仕事のあとが感じられる細部
細かなところを見て回ると、手仕事の跡があちこちに残っている。収納棚の接合部には掻き込みが入っているからか歪みがほとんどなく、扉の先端はわずかに面取りされていて、閉めたときに角が当たらない。押入れの中は布団用の段と長物を立てて入れられるスペースがきっちり分けられていて、「とりあえず詰め込む箱」ではなく「どう使うか」を先に考えて寸法を振ったことが伝わってきた。浴室は驚くほど小さいけれど、必要な所作だけを潔く収めた感じで、いたずらに広げるよりよほど理にかなっている。
ヒューマンスケールと設計の感覚
帰ってから読み始めた吉村さんの本に「ヒューマンスケール」という言葉が出てきた。折りたたみ椅子の図解と一緒に、人が腰かけたとき背中や膝裏のどこが支えられると楽かが描かれていて、暮らす人の体に合わせて空間を整えるという考え方が説明されていた。その図を見た瞬間、箱根で体験した窓の高さやラタンチェアの丸みが頭の中で一気につながった。人の動きや重心に合わせて空間を整えることは理屈で言えば当たり前だが、実際にそこまで丁寧に考え抜くのは簡単じゃない。考えるという手間を惜しまない。その積み重ねが、派手ではないのにじわじわと心に残る住宅を生むのだと感じた。